和歌山県赤十字特別救護隊 30周年記念誌より

体験記録 富士山大規模落石事故救護活動(昭和55年8月14日)   田中幸民 (現救護隊総務局長) 記

 「サー、いよいよ今日は、待ちに待った富士登山の日」。出発5時間前から車輌の整備、備品の点検等、各隊員大忙しです。特に救急車の整備係小西、木下両隊員は熱が入っています。

 救急医療薬品、ストレッチャー、サイレン、赤色回転灯等の資材の点検整備(後の救護活動で非常に役立った)です。

 19時、出発時間です。和歌山から福岡課長、宮本隊長と合流し、救急車1台、乗用車5台の計6台で一路富士山に向かって出発した。途中何事も無く、富士吉田より、スバルラインを登り、富士山五合目のキャンプ予定地に14日午前2時30分に着いた。キャンプの用意をして休んだのは4時30分を過ぎていた。東の空が少し明るんだように見えるところでした。

 私は車の中で休み、ふと窓をたたくような音で目を覚ました。30才位の女の人がこちらに向かって頭を下げています。何事だろうと車外に出てみると、青白い顔の10才位の男児がビニールシートを敷いて横たわっています。どうしたのかとたずねると、気分が悪いとのことですので、すぐに救急車のストレッチャーに寝かせました。

 男児は呼吸困難で脈拍は弱く、身体は異常に冷たく高山病ではないかと思い、福岡課長に指示を求めたところ、やはり高山病と思われるので、至急病院に搬送するようにとの事で、母親を付添に、私と木下、野田隊員が下山しました。

 「何分にも所不案内ですので、富士吉田のアマチュア無線局に、もよりの病院を探してもらったところ、山梨赤十字病院が診察してもらえるとの事ですので、病院までアマチュア局の局長さんに誘導をお願いし急行しました。アマチュア局に病院への有線連絡で受付依頼していましたので、スムーズに受付けてもらい、診察を依頼したことをキャンプに無線連絡し、もどって登山にかかりました。

 約30分位登ったでしょうか、三合目の標識を過ぎてすぐでした。手を振って合図している人が居ます。ふと見ると道路上は、ガラスのかけらや、バックミラー等が散乱、交通事故です。すぐに車を止め、木下、野田両隊員が車から降りて見に行きましたがすぐにもどり、3人負傷、中でも女性は、頭が割れるほど痛いと苦しんでいるとのこと、すぐに無線で応援を要請。安田、小西両隊員が救急箱を持ってかけつけて来た。女性があまりにも重症であるので、応急措置を施し、先ほどの病院への誘導をお願いし、アマチュア無線局に、消防の救急車出動の要請を依頼しました。

 救急車の到着するまでの間、応急措置を続け、到着の救急車に負傷者を引き継ぎ状況説明して五合目のキャンプにもどったのは、午前10時を過ぎていました。登山開始時間の正午近くにも、すり傷、その他腹痛等の人たちで休む間も無く救護奉仕に汗だくだった。

 いよいよ登山開始10分前。全員集合、福岡課長よりの注意等を聞き、5班に編成された隊員は次々と頂上めざして、登山開始して行きました。

 赤十字無線は使用せず、万が一に備えて待機班は、常時開局ワッチし、私班に携帯局(1ワット)1局の携帯を命ぜられた。各班長は、携帯用アマチュア無線機を持参し各班との連絡にそなえた。

 私は、10名で編成班中最大の人員で、五合目待機班との中継局を命ぜられていました。

 五合目との定時交信は、○○時○○分より15分間ときめた。空も澄みきって申し分のない登山日和で、意気揚々と登っていきました、だが遠くで見ている雄大な美しい富士山とちがい、けわしい、苦しい登山となりました。我々は、山登りが好きな連中ばかりで日頃訓練で鍛えているつもりですが、100メートルも登ると小休止である。福岡課長が登山前に言っておられたごとく「15歩登って5歩休め」まさにその通りである。課長の言葉を思い浮かべながら約1時間位登った。我々一向10名は、「夕刻までに八合目山小屋に着けば良いのだから」とまったく、ゆっくりとした調子で登って行った。六合目を過ぎ七合目との中間付近で、宮本班が追いついて来た。

 五合目待機班との定時無線交信が近くなってきたので、小休止しようと丁度下山路近くの比較的ゆるやかな地形の地点で小休止に入った。定時交信も終り、水筒の水を一口飲もうとした時、先発班よりの無線で、

       「落石だ・・・・・・・・・・・・・!」

との連絡が、連呼された。最初は何を言っているのかわからない位、早口でした。と同時に、ドスン・ドスンと雷にも似た地響きの音が、空を切って来た。ふと山頂を見上げると、砂煙と共に数十個の人頭大の石と、約2メートル以上もあるかと思われる岩石が、ふりかかってくるように見えた。

 私達の疲れた横顔を尻目に、先ほど笑顔で登って行った娘さんが、その落石の音と共に落馬したのを我々数名が目撃した。そのとき、まさに悪夢かと思われたことが現実におこったのである。

 落馬して身動き一つ出来ぬ足に2メートル大の石が、直撃したのである。「落石だ逃げろ」ただ最初にこの言葉を言ったのを今も良く覚えている。とりもなおさず、身の危険というより周囲の安全を第一に、日頃訓練で教えられたように、”水と石は丘に逃げろ”との言葉どおり、私は全員を誘導しながら自身の安全も確認しながら避難した。

 今まで地面に足が立っていたところ間近を、その落石の中でも1番大きな岩が、唸りを上げて通過して行った。その間何秒あったろうか。これほどまでに時間の長く感じたことは一生忘れることが出来ないと思う。

 さらに登山路を串刺しして通過してゆく落石を目で追いながら、身振り手振りで”丘のほうへ逃げろ・・・・”と大声で言っているにもかかわらず、各方向に行く登山客もあり、ただひたすらに”逃げろ逃げろ”と叫び続けた。先ほど見た悪夢がさらに、もう一度あるかのごとく、蛇行している登山道を、巨石が六合目あたりまで串ざしして落ちて行ったのである。

 ”どうしようもない、我々のいや私に落石を曲げる力があれば”そのように人の無力さを知り、自然の力を、まざまざと見せつけられたのである。

 落石の砂煙のさめやらぬうちに、次期行動はなんであるのか、すぐ判断出来たのである。日頃の訓練のたまものであろう。福岡、木下、野田各隊員に「落馬した娘さんの救護に移れ」と指示した。さらに無線通信で課長をむかえに下った宮本隊長と福岡課長一行の無事を一時も早く確認することを最優先と考えた。

 先発一行、我々一行、後方課長一行全員の無事を確認し終えた頃、救護に向かった隊員からの一報が入った。

 「左大腿部複雑骨折、並びに右足挫傷骨折、意識あり。」その通信をもとに、アマチュア無線を使用して五合目待機班に対し”落石事故あり、負傷者多数ある模様”との連絡を入れたが、これを傍受したほかのアマチュア無線局が「富士山に何かあったらしい」と多数出て来て混信し通話がまったく不可能となった。

 私は課長に赤十字無線の使用を願い出た。課長は「使用を許可する」と申されました。ただちに”こちらは日赤和歌山301、ただ今富士山で落石により大惨事が発生。登山中の和歌山県赤十字特別救護隊は、救護活動を実施中であるが、救援たのむ”と発信した。が近県局では、直ぐに理解出来なかった様であった。

 60才位の男性が、落馬した娘は”私の娘らしいので何という名か確認できませんか”と、私に申し出であり、さっそく救護に従事している隊員にアマチュア無線にて”負傷者の氏名を知らせよ”と連絡した結果、「落馬した女性の氏名送ります。○○○子です」と応答あり。男性に知らせた。”それは私の娘です”と言って夢中でかけ登って行った。

 5分ぐらいたっただろうか、急造タンカで運ばれてきた負傷者と共に、救護所設置ならびに救急車の運行に備えて下山開始した。その途中にも数多くの負傷者、死者を確認しながらも五合目キャンプに急行した。

 救護所開設に当たり、私が五合目に負傷者と共に到着した。小西待機班は五・六合目の様子を察知し臨時救護所及び救急車運行用意がすでに準備されていた。日頃の訓練が生かされていることを痛切に感じたのでした。

 14時20分頃、頭蓋骨骨折の15歳くらいの女児を救急車に乗せ、山田隊員と共に山梨赤十字病院に向かって急行したのは、救急車の第一先発であった。同乗の母親は”赤十字病院のような立派な病院で手当てしていただけるこの子は幸せ者です。”と涙していた。このとき救急車のハンドルを握る私は十字の重みをひしひしと感じ、手の汗をぬぐうのも忘れ、”子のこの生命が私どもの手の中にいる様にも思えた”。ただひたすら先導白バイに誘導され赤十字病院に向かったのでありました。

 病院に到着後、休む間もなく、六合目現地本部より通信で、「負傷者、多数有り救急車は、ただちに五合目臨時救護所まで戻られたし」との連絡を受け、先ほどの先導された白バイに事情説明し、再誘導され、五合目に向かった。

 到着するやいなや、頭部が”ざくろ”のように破れた患者が目の前に寝かされているではないか。看護奉仕団員に指示して救急車に乗せ病院に急行した。

 往復約1時間半前後の道のりを、空腹も忘れて3往復した。最後の帰り道では、辺りはもう夕闇に包まれ、何もなかったように静まりかえっていたが、私達救急員として一刻も早く五合目の救護所に向かうのが、何よりの使命と感じ急送した。

 この間において、五合目救護所にも自力で現場より脱出して来た負傷者達を看護奉仕団員と野田隊員と共に小西隊員たちは、応急手当に汗を流していた。その数10数名に及んだ。また、野田隊員は”このときほど清水がありがたいと思ったことはない”といったことも印象に残っています。

 さらに付け加えるならば、我々は常にアンリ・デュナンの心を胸に奉仕活動をしなければならないと思った。五合目救急搬送状況において思うこと一言。日赤山梨県支部の方々と共に赤十字はひとつという言葉をこのときほど感じたことはなかった。

 それは、夕刻間近、山梨県支部の方々が2便として救急車で到着し、同じ赤十字のマークが目に写ったときは何より心の安どが得られ10数名の赤十字特別救護隊の隊員がさらに強化されたようにも思えた。

 午後7時45分六合目において救護活動していた課長から、”非常救護体制を解く”との連絡を受け、五合目で課長一行を待った。夜もふけ、夜の静寂が感じられる頃もうすでに午後8時をまわっていた。

 午後10時ごろ下山し山梨県赤十字病院のご好意により富士吉田市内のホテルに到着。入浴ご夕食を取り寝床に入っても、さめやらぬ興奮が故にか深夜になっても寝付かれなかった。

 翌朝9時30分福岡課長、宮本隊長と共に山梨赤十字病院へお礼に訪問し、院長先生に患者の容態を聞いたところ、○○○子さんは頭蓋骨骨折であるが、意識がはっきりし、”今朝空腹を訴えた”と聞き、安心した。

 帰路途中素走りの峠付近の下り坂で、停滞中の当車に、登ってきた乗用車の運転手が、”この下で単車と乗用車の事故があるので救護してやってほしい”との申し出があった。近づいてみると、若い男性が右足首を骨折していた。応急措置をし、御殿場の富士病院まで搬送した。

 ああまたかと思うことがあっても、傷を受けている人がいるとやはり見過ごしては通れないのを全員が感じたに違いないと思う。この時、隊員たちは疲労の絶頂にあると思ったけれども、よく協力してくれた。隊員の心をこの時再認識したのであった。

 帰路もようやく終りに近づいて、大和川をこえた頃に泉分隊の面々数名がアマチュア無線で出迎えてくれ、やっとわが町に帰ってきたという実感がわいて来ると共に全員の無事を本当に嬉しく思えた。

 分隊事務局前にはすでに青木、滝本、佃、北川隊員等が出迎え、再び無事を喜び合った。

 しばらくの休止後、血の付いた毛布等を整理し、解散したのは、すでに12時を過ぎ日付が替わっていた。隊員各々も心配して待っている親や妻、子のもとにそれぞれの思いをいただきながら、家路についたことと思う。